学会3世の徒然日記

学会3世としてのことや、日常のあれこれを書いていきます。

私にとっての『創価学会』

 

この辺りで私の『創価学会』に対する考え方を述べていきたいと思います。

 

創価学会への考え方としてはいくつかのパターンがあると思います。

①学会自体が好きではない

②学会も活動も好き

③学会は好きだが活動内容は好きではない

④学会は好きではないが活動が好き

主に上記の4つかと思います。私自身は①に該当します。

 

こんなブログを書いていてなんですが、私は創価学会の教義や活動内容を批判して、学会員を言い負かしてやろうとか、そんなことを考えているわけではありません。そんなことは私にとってなんの意味もないからです。彼女が活動家であるために悩んでいるだけであって、独り身であれば好き勝手していたことでしょう。

ですからどうか皆さん、ただ学会を叩きたいだけの理由で様々知識をつけ、書き込みをしているのであればそんな時間は無駄ですのでやめた方がいいと思います。ただ、少しでも学会関連で困ったこと、いやだと思ったことは意見として書くことです。一つ一つの意見は小さくても、それはいつか真実として浸透していくはずです。

 

閑話休題

前述の通り、私は学会と対決するつもりはありません。教義や活動内容が正しいかどうかなど、私にとってはどうでもいいこと。そもそも宗教教義などというものは正否を問うものではありません。宗教というのは人々が幸せになるための考え方を学び合う場だと私は考えています。幸せというものは一人ひとり違い、それによって軸とする考え、いわば思想信条は変わってくる。ですから人によって信じる宗教が違うことは当たり前なのです。以上の事から宗教に正否は存在せず、よって勝ち負けなんてものも存在しないはずなのです。しかし、残念ながら創価学会にはそのどちらもが存在しているのです。だからこそ私のような、それを受け入れることが出来ない人間にとっては居心地の悪い場所なんですね。ですから私は学会員でありながら2番のような立場をとっているんです。

 

そんな創価学会の体質は当然周囲との軋轢を生みだします。創価学会は「対話」を重要視し、対話によって連帯の輪を広げると宣言しています。その考え方そのものはとても素晴らしいことだと思います。戦争になってから外交で解決することは非常に難しいですが、戦争にならないような基盤を外交という「対話」によって作り上げることが出来れば、それは大変素晴らしいことですよね。しかし、創価学会のいう「対話」とはそのようなものではありませんでした。このことは次の記事にて詳しく書きたいと思います。

 

要は「自分たちの正当性・絶対性」を語ることが創価学会の「対話」であって、相互理解の場ではないということです。そしてそれを振りかざし勝負に打って出る。他宗を打ち負かしたと勝ち誇り、宗教界の王者と宣言しました。内部の人間からしたら嬉しいでしょうが、私にとっては全く持って理解ができませんでした。その姿は最早宗教と呼べる代物として私の目には映っていなかったからです。

元々信仰心の無かった私ですが、そういった経験を経て完全に見切って今に至る、というところでしょうか。私にとっては「思考を固定する拘束具」のようなものに見えます。学会員の方を見ていると多くはこんな方ばかりではないでしょうか。

一言断っておくと、そういった方ばかりではありません。外部の考えを理解してくれる方も多くはありませんが存在します。そういった方たちまでまとめて「創価学会はおかしなやつらばかり」と批判することは避けたいと思っています。何より私の彼女は真面目な学会員ですから。関係ないとは言いつつ切っても切れない存在なんですね。