学会3世の徒然日記

学会3世としてのことや、日常のあれこれを書いていきます。

組織ありきなのか

 

ここ数日風が強く、洗濯物が埃っぽくてがっかりきているのらです。

 

私は活動しておらずとも籍は創価学会に置いております。なので他宗がどのような指導をされておられるのかは存じません。そのことを承知の上で、創価学会の事に関して書いていきます。

 

創価学会は組織と、そして永遠の指導者である池田大作氏から離れてはならないと指導されています。そこから離れてしまっては我見の信心になり、信心が歪むとそう教えているのです。

ではそこから離れなければ絶対に信心が歪まないのかと言えばそうとも限らない。寧ろそこに悩んでいる会員はかなり多いと思います。今の組織の方針は正しいのか、自分はこのままでいいのだろうか、信仰と政治は同じ土俵で語っていいのか…。悩みは尽きないことと思います。

例えば一般企業。会社の重役が何か問題を起こしたとします。そうなれば会社のトップである代取、社長、会長等もその責任は免れません。これは社会の常識です。しかし宗教組織、とりわけ創価学会は違う。池田氏がいまだどれだけの影響力を持っていようとも、会員はその下の堕落した幹部が池田氏を利用し、組織を食い物にしているなどと言う理屈を持ち出してくる。じゃあそれを見過ごしている池田氏はどうなるのかと。今や幹部に手も足も出ないとするならば、毎日あれほどの執筆をされているのだから、自身の思いを、末端の会員に対して表明してもいいのではないかと思うのです。…まあそんなことしないと思いますが。

 

昔、オウム真理教が大きな事件を起こし問題となりました。その後の裁判でオウム真理教に解散命令が下されたとき、我が国の憲法第19条【思想及び良心の自由】、20条【信教の自由】、21条【集会・結社・表現の自由】との関係性が争点となったことがありました。つまり、裁判所のオウム真理教解散命令は、憲法の保障する思想良心の自由、信教の自由、集会・結社の自由を侵害しているのではないか、と。

 

結論から言えば、オウム真理教は解散しました。解散命令は合憲だったわけです。

この時のロジックはこうでした。

  1. 解散命令は世俗的目的で判断され合理的
  2. 当該法人の行った行為が反社会的で公共の福祉を害している
  3. 信者の信教行為への支障は間接的・事実上のものである

この3点が主な判断基準でした。

3つ目にアンダーラインをし、赤くしたことからもわかる通りです。

宗教組織への帰属と言うのは信教行為にさほど影響は与えないというのが世間一般の考え方なのです。もちろんここには、オウム真理教の教義から信者を引き離さなければ、同じ人間がこれから絶えず出続けるという危惧もあったとは思います。しかし判例として確立されている以上、個人の信教というのは組織に帰属しなければ完結しないというものではなく、あくまで個人の中で完結すべしというのが世間一般の認識なのです。

裏を返せば上記3番の如く、宗教組織の信者に対する影響力は間接的で事実上のものでしかないということ。これを創価学会の中では絶対としていること自体、ある種異常な状態と言ってもいいかもしれません。

上記の記述はあくまで裁判所の出した結論、判例であって世の中がすべてその考えで回ることが良いとは思いません。その組織ごとに色々な考え方があっていいと思います。しかし、組織がなければ信仰が保てないのだとしたら、それは最早信仰と言えるのでしょうか。

 

付け加えるとオウム真理教は解散後に新たな組織「アーレフ」を立ち上げ、信仰を続けました。これが正しいか正しくないかはさておき、組織ありきの信仰ではなく、信仰あっての組織だと痛感しました。

 

オウム真理教が宗教組織であったかはまた別のお話…。

幸せの形

 

昨日は暖かかったのに今日になったら急に冷え込みましたね!!

寒暖の差が激しく体が動揺しているのらです。

皆さん、体調崩さぬよう気を付けてくださいね。

 

母から「幸せになるため」と教わった学会の活動。

皆さんの幸せってなんでしょうか???

寝ること?

食べること?

運動すること?

死ぬほどゲームをすること?

映画三昧の休日?

大好きな仕事をしているとき??

 

この中に正解があるとすれば…全部じゃないでしょうか(笑)

そもそも幸せに正解も不正解もないんですよね。逆だってそうじゃないですか。お金がないから不幸かと言われればそういうわけでもない。子どもがいない夫婦は不幸かと言われればそれも違う。幸か不幸かは立場や人間性、捉え方によって様々です。だから自分が幸せだと思うことを人に押し付けたからと言って相手も幸せになるとは限らないんですね。これ、意外と盲点だったりします。

 

前回の記事「学会員の弱点-学会員と付き合うポイント-」で書いたように、学会員である彼女には大きな弱点がありました。

  1. 自分に対して完璧主義
  2. 自分を褒めず、責任だけを背負い込む

この弱点故に自分はダメなんだと思い込みやすい傾向にあると書きましたが、そこにはもう一つ、ある要因が潜んでいました。それは…

 

「外部の人の方が幸せそうに見える時がある」

 

これだったんですね。

自分は絶対幸福の信心をしているはずなのに、外部の方が幸せに見える。ここで末期の方は「いつか不幸が…」とか「あんなのは表面上の幸せだ」とか言うんです。私の近くにもいました。そうやって言いたい奴には言わせておけばいい。ただ、外から見ればその物言いは“外部の幸せそうな姿に嫉妬している”ようにしか見えない、と言うことは良く覚えておいた方がいいと私は思います。

問題なのは末期ではない方、要は私の彼女のようなタイプなんです。このタイプは相手に干渉するでもなくただ落ち込んだり考え込んでしまったりする。こうなるともうどうしようもない。外から幸せそうに見える人でも、本当は何かを抱えて生きているかもしれないという可能性がなかなか見えてこないんです。

考えてみてください。自分がしていることは間違いないと確信しながらも、自分が幸せなのか悩む人間と、色々抱えながらも楽観的に幸せそうに生きる人間。どちらが心の健康を保てそうですか?

多分大多数は後者を選択するんじゃないかと思います。悩みに負けない、何事にも乱されない自分を形成するはずの信仰によって自分自身がぶれる、本末転倒な結果になってしまっています。これではいけないんですよね。折伏や新聞啓蒙、選挙活動を教える前に、本当はこういったことを教えなければいけないんだと私は思います。あ、あくまで私が運営するならの話ですよ!(笑)

 

私は、彼女とは持久戦になると思っているのでこういった殺傷能力の強い言葉を使うつもりはありません。しかし、相手の考えに思いを巡らすことは理解することにもつながります。その意味で日々のやりとりを軸に、相手がどう感じ、何を考え、話をしてくれたのかをこうした形で残しておきたいと考えています。

 

 

それにしても、どこに行っても袋のネズミになる教えってすごいですね。驚嘆してしまいます。

  • 本人が幸せだと感じる  →学会のおかげ
  • 本人が幸せだと感じない →信心が足りない
  • 本人が脱会したいと思う →魔が競い起きている
  • 脱会を踏みとどまる   →魔に打ち勝った
  • 脱会した        →あいつは負けたと組織内で反面教師

この中で特に怖いのが5つ目の項目、「組織内で反面教師にされる」というもの。

これ、辞めた人が困るんじゃないんですよ。むしろターゲットは中の人。辞めた人間はこうやって組織内で言われるんだ、と刷り込んでいくんです。もちろん組織によって全く話に出さなかったり、言葉を濁し、病気のため実家に帰ったとかいうところもあります。ただ個人同士の話になると必ずそういった話が出ます。特に婦人部同士の会話と言うのはそこいらのおばちゃんと基本変わりませんからね(笑)

こういったことを無意識のうちに見て育つことで、否定的な考えを自然と排除するようになっていきます。こうやって、組織に就くことが幸せへの近道という認識になっていくんですね。

 

 

あらま、タイトルと関係ない話になってしまいました。それではこの辺で。

学会員の弱点-学会員と付き合うポイント-

 

先日煙草の煙で泣いてしまったのらです。

どうも煙には弱いですね。本当に号泣ものでしたよ。あんなに泣いたのはいつ振りかな。多分『ハチ公物語』を観て以来ですね。

 

 そんなことはさておきましょう。

 

本日のタイトルにもした「学会員の弱点」ですが、何も創価学会を倒すための秘策とかそんな話をするつもりではありません。そもそもそんなことに興味はないので(笑)

ここでは学会員のパートナーと良好な関係を築くためのポイントとして紹介させて頂こうと思っています。

 

弱点というのは昨夜のメールでのやりとりで発覚したんです。

どうやら彼女、たまに現れる「やる気のない自分・慈悲深くない自分」が嫌な様子。いつも同じようにいられない自分が嫌いなのだと言っていました。こういった完璧主義って学会員の方にも多いみたいですね。いつも完璧にこなさなければいけないという思いから自分を追い込んでしまう、典型的な鬱に突っ込んでいく性格です。そういえば創価学園時代にも鬱になった同級生を何人か見てきたんですよね。みんな、このような性格でした。

 

学会では人間の生命はいつも様々な性質へと移り変わってゆくと教えられています。これは元々天台宗の教義からきているもので「十界」と言われています。即ち『地獄・餓鬼・畜生・修羅・人界・天界・声門・縁覚・菩薩・仏界』の十の状態があると。それぞれがどんな状態なのかは、今回は説明を省きますね。すみません、そこが重要ではないので…(汗)

 

創価学会の信仰の核は、現世(生きているうち)で仏になることです。そして学会活動を頑張ることで、自らに備わっている仏の生命(仏界)を涌現(ゆげん)、つまり現すことができると教えられています。つまり学会員の多くは、仏の生命が現れているかどうかがそのまま、学会活動を真摯に行えているかのバロメーターになっていると言えるでしょう。裏を返せば仏の生命でいることができないということはそのまま、学会活動が疎かになっていることの証明になってしまうんですね。

だから、特に役職を持っている人は“会員さんに対して慈悲深くいなくては”とか“学会活動に真摯に向かわねば”と自分を追い込みがちになってしまうんですよね。またそういった責任感の強い人に役職を持たせるんです。そうした方が組織として効率がいいですからね。

 

彼女も恐らくこういった心境なんだと思います。かなり責任感の強い性格ですから。知らず知らずに過度なプレッシャーをかけ続けることで、何かの拍子にその緊張が解けると途端に燃え尽き症候群のように自己嫌悪に突入してしまう、と…。これはかなり病巣が深いです。難儀なものですね。

 

そしてもう一つ、この状態を悪化させるポイントがあります。それは…

 

「自分を褒めないこと」

 

これに尽きると思います。これはどういうことか。

「自分へのご褒美」や「頑張った自分に乾杯」なんて言葉聞いたことないですか?

自分が頑張ったことを認め、それを自分が褒めてあげる。これってちょっとアホっぽいですが実はとても重要だったりするんです。

社会に出るとなかなか人から褒められることってないんですよ。出来て当たり前。その先を目指す。それが仕事です。だから会社説明会なんかでリクルーターが一番嬉しかったこととして「お客さんに感謝の言葉を頂いた」を挙げるんだと思います(それくらいしかわかりやすい話がない、という可能性は置いておきましょう…)。

人から褒められることが少ない以上誰が褒めるのか。自分しかいないんですよ。体がぼろぼろになるまで自分は頑張った、でも心身の状態を骨身に染みてわかるのって自分だけなんです。だから自分が本当に理解して褒めてあげられる唯一の人間なんですよね。だから「自分へのご褒美」なんですよ。

 

学会員にも色んな方がいるので一概には言えませんが、彼女の場合はまあーーー自分を褒めません!!!(笑)

ひたすら自戒の日々。本人は自分に甘いと言っていますが、定期的に消えてしまいそうになる彼女を見ていると、そのうち本当に消えてしまうのではと不安になるくらいです。なぜそこまで自分を追い込んだり褒めなかったりするのでしょうか。それこそが創価学会に限らず「宗教」というもの自体の怖さなのかもしれません。

要は全て「信仰のおかげ」なんですね。

自分の頑張りというのも信仰のおかげ、上手くいったのも信仰のおかげ、上手くいかなかったことだけが自分の責任。これが一般的な学会員の考えです。これではストレスも溜まるし自分が嫌になるのもわかります。

 

上記からわかることは、

  1. 真面目な・真摯な学会員ほど自分に対し完璧主義である
  2. そういった人ほど自分を褒めず、責任ばかり背負う傾向にある

ということです。一般社会にもこういった人は存在しますが、こと真面目な学会員にはこういったタイプが本当に多い!!(笑)

これを『極端な自己否定型の完璧主義者』と名付けました。(笑)

これは男女関係ないです、恐らく。なのでこちら(外部側に身を置く者)はどっしり構えておきましょう!

パートナーが疲れ果てたときに戻ってこられる場所でいることが重要だと思います。創価学会っておかしいよ、間違っているよと議論をすることは簡単です。自分の気持ちを相手にぶつけるだけですから。でもそれでは大切な人が精神的に孤立することを助長するだけなんです。人を好きになれば多かれ少なかれ衝突することはあります。それは宗教関係なくです。宗教如きで対立し、破局するならそれまでの関係であって、その後に訪れるであろう諸問題も一緒に解決できないことが多いと個人的には考えています。それに、日本という宗教や思想に寛容な(現代はどうだかわからないですが…)国に生まれながら、その違いで大切な人と別れるなんて悲しいじゃないですか!

私はそういった人たちが少しでも減ることを願っています。だからこそ、数人でも観ていただける方のために私自身の体験を基に大切なポイントを綴っていきたいと、こう考えた次第です。

 

そしてもう一つ重要なのは、「相手を褒めてあげること」です。

上記のように自己否定しがちな人がとても多い印象です。なのでせめて私達パートナーが褒めることで-だった自分を±0まで引き上げてあげることが出来るかもしれません。自己否定に入ると何を伝えてもいまいち上手く伝わりません。なのでまずは褒めてあげましょう。気持ち悪いくらい褒められるのって、案外嬉しいものなんですよ!(笑)

 

 

さあ、ここまで長々と書いていきましたが最後にまとめておきたいと思います。

まず真面目な学会員の特徴としては

  1. 自分に対して完璧主義者である
  2. 自分を褒めず、責任ばかりを背負いがちである

 

こういったパートナーを支えるために私達ができることは

  1. 相手も受け入れる寛容さを持つ
  2. 相手が帰ってこられるような存在でいる
  3. 相手をこれでもかと褒めてあげる

 

これがうまく付き合っていくポイントのいくつかだと考えています。

もちろん全ての方々に当てはまるとは限りませんが、これを見た方の付き合い方の一助になればいいなと思っています。

 

本当に大切なこと

 

どうも、最近色々と考えていたのらです。

 

そう、色々と考えていたんですよ。

アンチやバリ活、中立と様々な立場のブログを色々と見ながら。特にアンチブログには色んな悩みを持った方が集っていますよね。学会員に執拗な勧誘や新聞啓蒙をされているとか、パートナーが学会員で、相手の両親とひと悶着あったり結局破局してしまったり…。

でもよくよく考えてみれば(折伏や新聞啓蒙はさておき)結婚相手のご両親とひと悶着だったりって別に創価学会関係なく存在する問題なんですよね。現代だと割とポピュラーになった海外の人との結婚なんてその最たるものじゃないですか!

それと同じものだと考えたらすごく気持ちが軽くなった感じがしたんです。完全に同一視することはもちろんできませんが、それでもそういったことと本質は変わらない問題だと思えれば、向かっていく自分も少し変われるような気がするんですよね。

だから、これからはあまり根詰めて考えず、気楽にやっていこうと思います。前みたいに暗い文章書いていたらそれこそ「学会の信心が必要」と言われてしまうかもしれませんから(笑)

 

私はパートナーと完全に理解し合うことはできないと思っています。そもそも他人と完全に理解し合うなんて無理なんですよね。それはきっと自分を失くすことでしか成し遂げられません。そんなもの、何の意味もない。そんなことで得た信頼なんて、薄っぺらいものだと思います。だから私は理解し合おうとは思いません。

ですが、理解しようと努力することは大事だと思います。なんと表現すればいいんでしょうか…。思想そのものを理解できなくても、そういった思想がこの世に存在するという「事実」は理解しようとする、というところでしょうか。説明が下手ですみません。ですがそういった気持ちで、今と変わらず彼女と接していきたいと思います。それでどうなるかは…正直全くわかりません。ただ、人として誠実でありたいという思いだけは変わらず持ち続けたいと思います。

優先順位

 

最近新しい趣味を発見した「のら」です。あまり詳しいことは書きませんが、昔流行っていたものも時を空けて再び触れてみると新鮮味があって面白いものですね。何事も敬遠せずにまずは触れてみて、それから自分に合うかどうかを判断した方が得だと実感した次第です。

 

さて、創価学会では「女子部ロマン総会」というものを各地で開催するようです。役職持ちの彼女も当然参加することになったようですが、その準備やらなんやらで今月来月辺りは忙しいということは前々から聞いていました。もともと頻繁に会う機会を作ることができないため、月に1、2度のチャンスはかなり大きい!!

なのでなるべく拾い忘れの無いように日程をさらっていきます。私の方が融通の利く暮らしをしているので大抵は私が相手の予定に合せる形になりますが、それ自体に不満を持ったことは一度もありません。お互いに負担が無いように気遣いながら会えればいいと、私は考えています。

今回もそう思っていたので相手の指定した日程から、こちらの予定の合う日を選択して伝えました。恐らく贔屓目に見れば、その連絡を送った時間が遅かったこともあり地元の組織からの連絡と被ってしまったという事情があったのかもしれません。次の日に彼女から連絡がありました。

「会う日を変えられないか」と。

彼女曰く“どうしても外せない会合が入った”とのことでした。元来短気な私ですが、彼女や親しい相手には滅多なことでは怒りません。今回も怒りませんでした。それよりも寂しかった、と言う方が大きかったかもしれません。

お互い一人の時間を満喫するタイプの人間なので、そういった時間も尊重するためにあまり相手に干渉しすぎないよう心がけてきました。ですから会えない日の過ごし方を詮索するような無粋な真似はしません。また仕事の都合や家庭の事情など予定していた日程を変更しなければならない出来事もあるでしょう。そういった場合もそちらを優先しなければならないということも理解しているつもりです。彼女にとっては「学会の外せない会合」というものも同じような扱いなのでしょう。しかし私は、私よりも学会の用事を優先させたように見えてしまい、とても悲しくなりました。

一口に「学会の用事」と言っても色々なものがあり、どうしても外せないものがあるというのは仕方がないと理解はしているつもりでしたが、ここまでショックを受けるとは。そっちの予定を優先した相手に悲しくもなりましたが、何より腹が立ったのは、「人に言っておいて自分がやらないというのは示しがつかない」という使命感の強い人間だとわかった上で複数の役職を背負わせる組織のやり方です。

今、創価学会は人材不足です。これは火を見るより明らかです。そして現場は一人が複数役職を背負いながらなんとか回しているという所が多いのが現状。こういった運営状況は創価学会に、今の組織規模はもう限界だ、と言っているようなものです。運営が行き詰った時に気付いても、傷付くのは末端会員だけです。いや、そのことに気付きすらしないかもしれない。まさに「知らぬが仏」という状態でしょうか。そうなったときに彼女がどうなるのか、今はまだ考えられません。

私にとっての『創価学会』

 

この辺りで私の『創価学会』に対する考え方を述べていきたいと思います。

 

創価学会への考え方としてはいくつかのパターンがあると思います。

①学会自体が好きではない

②学会も活動も好き

③学会は好きだが活動内容は好きではない

④学会は好きではないが活動が好き

主に上記の4つかと思います。私自身は①に該当します。

 

こんなブログを書いていてなんですが、私は創価学会の教義や活動内容を批判して、学会員を言い負かしてやろうとか、そんなことを考えているわけではありません。そんなことは私にとってなんの意味もないからです。彼女が活動家であるために悩んでいるだけであって、独り身であれば好き勝手していたことでしょう。

ですからどうか皆さん、ただ学会を叩きたいだけの理由で様々知識をつけ、書き込みをしているのであればそんな時間は無駄ですのでやめた方がいいと思います。ただ、少しでも学会関連で困ったこと、いやだと思ったことは意見として書くことです。一つ一つの意見は小さくても、それはいつか真実として浸透していくはずです。

 

閑話休題

前述の通り、私は学会と対決するつもりはありません。教義や活動内容が正しいかどうかなど、私にとってはどうでもいいこと。そもそも宗教教義などというものは正否を問うものではありません。宗教というのは人々が幸せになるための考え方を学び合う場だと私は考えています。幸せというものは一人ひとり違い、それによって軸とする考え、いわば思想信条は変わってくる。ですから人によって信じる宗教が違うことは当たり前なのです。以上の事から宗教に正否は存在せず、よって勝ち負けなんてものも存在しないはずなのです。しかし、残念ながら創価学会にはそのどちらもが存在しているのです。だからこそ私のような、それを受け入れることが出来ない人間にとっては居心地の悪い場所なんですね。ですから私は学会員でありながら2番のような立場をとっているんです。

 

そんな創価学会の体質は当然周囲との軋轢を生みだします。創価学会は「対話」を重要視し、対話によって連帯の輪を広げると宣言しています。その考え方そのものはとても素晴らしいことだと思います。戦争になってから外交で解決することは非常に難しいですが、戦争にならないような基盤を外交という「対話」によって作り上げることが出来れば、それは大変素晴らしいことですよね。しかし、創価学会のいう「対話」とはそのようなものではありませんでした。このことは次の記事にて詳しく書きたいと思います。

 

要は「自分たちの正当性・絶対性」を語ることが創価学会の「対話」であって、相互理解の場ではないということです。そしてそれを振りかざし勝負に打って出る。他宗を打ち負かしたと勝ち誇り、宗教界の王者と宣言しました。内部の人間からしたら嬉しいでしょうが、私にとっては全く持って理解ができませんでした。その姿は最早宗教と呼べる代物として私の目には映っていなかったからです。

元々信仰心の無かった私ですが、そういった経験を経て完全に見切って今に至る、というところでしょうか。私にとっては「思考を固定する拘束具」のようなものに見えます。学会員の方を見ていると多くはこんな方ばかりではないでしょうか。

一言断っておくと、そういった方ばかりではありません。外部の考えを理解してくれる方も多くはありませんが存在します。そういった方たちまでまとめて「創価学会はおかしなやつらばかり」と批判することは避けたいと思っています。何より私の彼女は真面目な学会員ですから。関係ないとは言いつつ切っても切れない存在なんですね。

信心強情な彼女との付き合い方

 

今回は、「創価学会員としての歴史(3)」で出会った彼女との関係を書いていこうかと思います。

 

彼女との出会いは学園時代。そこから彼女はバリ活、私は非活へと進んでいきますが、なんだかんだうまくいっております。互いのスケジュールが合わず(主に相手が活動で多忙のため)月に2度会えればいい方ですが、それもちょうどいい距離感なのかもしれません。そんな交際期間を経て、学会員であるパートナーとのうまい付き合い方も学ぶことが出来ました。ポイントはたったひとつ。

 

 

創価学会や活動を批判しない』

これが最大のポイントです。

私達非活や外部の人にとっては創価もその中の活動も、ましてや池田大作氏への尊敬も存在しません。しかし、学会員は、外部には考えられないほどの忠誠心と尊敬を持ってその人生を賭けています。「信心は勝負」だなんて言葉からもわかりますよね。それを容易く批判することは即ち人生そのものを否定することに他なりません。外部の人は学会員であるパートナーに、学会での人生がすべてではないことを気付いてほしいが為、厳しい言葉をかけてしまいがちです。ですがそれでは全くの逆効果です。我々の思いであるところの“信仰は当人の意思を尊重してほしい”を通したいならば、相手の創価学会への信仰心も認めていくべきなのです。まずはそこがスタートラインであることを肝に銘じましょう。

 

とはいえ、お互いの権利を主張すると色々と弊害が起きてきます。

特に顕著なのは相手がバリ活であればあるほど二人の時間はなかなかとれない、ということ。選挙期間や学会にとって大事な時期は特に時間がありません。こちらが合わせるというようなレベルではなく、そもそも仕事と活動で空き時間等無いという有様。

これに関してはそういったライフスタイルの人と付き合っていると割り切ってしまった方が楽かもしれません。これを言ってしまったら元も子もないですが、学会員と付き合っているならば妥協が大事です。相手が覚醒する機会に恵まれるまでは妥協をし、問題は棚上げ状態にしておいた方がお互いの為だと思います。ただ逃げているだけだという批判も重々承知ですが、実際に付き合ってみると綺麗ごとだけでは解決できない問題がたくさん出てきます。それをいちいち表面化させていたら身が持ちません。結婚前に問題をクリアにしたい、という方がいらっしゃるのであれば何も言いませんが、どちらかが信仰・心情を捨てるゴールを目指すのであれば不毛な戦いになると思います。本来目指すべきゴールは、互いの思想信条を尊重し合える関係であって、妥協してどちらかの思想を受け入れ、同じように信仰するというのは間違った形だと、個人的には考えています。

 

ここまではあくまで“男女の付き合い”の上でのポイントでした。

しかし、年齢を重ねるにつれて意識するのはやはり「結婚」ですよね。私達も先日そんな話がぽろっと出ました。そこで改めて私の「信仰を否定するつもりはないが、私は今のところ関わるつもりはない」というスタンスをはっきりとさせました。彼女は困ったような顔をしていたのが印象的でした。

私が外部であれば話はもう少しマイルドになったかもしれません。しかし私は内部、曲がりなりにも学会員である身。そんな人間が「信仰はしない」と言っている。相手のご両親からしたら印象は最悪でしょう。そもそも信仰は個人の自由なのですから特定の信仰をしないことで印象が最悪、なんていう状況がおかしいのですが、創価学会では信仰を捨てる行為は「恩をあだで返す行為・師匠に背く行為」であって罰があってもおかしくないことだと教えられています。ですから 私は、相手のご両親からすれば「忘恩の輩・師匠の思いを無下にした裏切り者」であり、そんな相手との結婚は簡単に認めてるわけにはいかない、というところでしょう。

彼女に質問してみました。

「私が外部だった場合でも、やはり創価の信仰はしてほしいか?」と。

彼女の答えは「できればそうしてほしい」ということでした。

 

彼女は、相手の思想が自分の信じるものに近付いてくれればという思いと共に、両親と仲良くやってほしいとの思いから、創価の思想を持ってくれればという考えでした。同じ思想でなければ仲良く出来ないわけでも、家族としてやっていけないわけでもありません。そうしなければいけないのであれば最早創価学会はグローバル宗教団体でも多様性を認める人間主義団体とも言えず他者を認めない排他主義の独善団体に過ぎません。こんな言い方はしたくありません。しかし、こちらは創価学会の主義思想や活動を認めると言っているにも拘らず、こちらの思想は受け入れることが出来ないというのは、やはり排他的と言わざるを得ません。

 

話が脱線してしまいました。

本来は互いの、相手を思う気持ちが最重要であるはずの結婚が宗教観の排他性によって上手くいかなくなってしまう。又人が幸せになるはずの宗教によって悩む人間が出てきてしまう。これは本当に悲しいことだと思います。

私も含め、同じような問題で悩んでいる方はたくさんいらっしゃると思いますので、私自身の今後の動向も含め、結婚に対するアプローチなど参考になりそうなことは記事にしていきたいと思っています。

今回はあくまで「彼氏・彼女」との付き合い方という観点から書かせて頂きました。