学会3世の徒然日記

学会3世としてのことや、日常のあれこれを書いていきます。

心配性の自分

 

 彼女との関係の中で私が意識的に行ってきたことは、あえて学会関連の話をしないということ。こういう話になると面倒と言うこともあるけれど、結局収拾が付かなくなってしまうから。そんな空間を共有したくないし、向こうにもそれで嫌な思いはしてほしくない、と私は考えていた。

だが意識的に避けたことが結果として相手に冷たいという印象を与えてしまったみたいだ。これはもしかしたら私なりにわざとやったことなのかもしれない。あえて気付いてもらおうと。浅はかだったなあ。そして何より学会関連の話をする彼女は忙しそうにしていた。やることは意外と多く、仕事終わりで駆けつけることもしばしば。そんな彼女にいつも私は「無理をしないでね」と声をかけていた。

彼女はあまり体が丈夫な方ではなく、疲労が溜まると体調を崩しやすい。だからこそ普段から人一倍気を付けてほしいと思っていたが、成熟した女性に説教するようなこともあまり望ましいことではないと考えたため細かいことは言わず、ただ「無理をしないでね」と声をかけることに決めていた。

それともうひとつ。何か人に頼めることは人に頼む。人に甘えるということはとても大事なことだと思っている。自分一人で抱え込んでしまうと、いざ自分が何もできなくなったときに困ってしまうのは周囲だということ。自分の負担をなるべく減らし且つ周囲に任せることの出来ることは触れておいてもらう。自己防衛の手段であるとともに周囲を守ることにもなる。私はそんな思いで「頼めることは頼んだっていいんだよ」と声をかけていた。これも、彼女が人に甘えることが苦手ということを知っていて心配だったからだ。抱え込んでにっちもさっちもいかなくなるよりよほどましだと私は考えていた。

 

私の伝え方がへたくそだったんだろう。それがうまく伝わっていなかった。彼女には「器用に生きる」と言うふうに伝わっていた。私は器用に生きるだけが大事ではないと思う、結局なんでも頑張っていなければ敵わない相手がいる、と。こう取ってしまった彼女が悪いわけではない。伝わるだろうと安易に考えていた私がまずかった。確かに、捉え方によってはこの人物像は「器用に生き」ているのだろう。器用に生きることは全力の人間より劣っているのだろうか。卑怯なのだろうか。

何かあるとすぐに自分を責める。自分を貶める。それが悪いことではない。自分を厳しく評価することができる人間はなかなかいない。今の状態で満足してしまえば楽だから。でもそれと引き換えに、彼女はたまに薄い影になって消えてしまうのではと思うことも多々あった。きっと本人も辛いのだろう。思い通りにいかない歯がゆさや自分の不甲斐なさが。

でも、そんなことで彼女にいなくなってしまわれたら私が困る!

私にとって彼女の代わりなどいない。一人しかいない、たった一人しかいない大切な人だ。人がどんな評価をしようと、自分で自分自身に最低評価をつけたとしても、私が花丸でもなんでもくれてやる!100点だろうが200点だろうがくれてやる!

 

だから、あなたが大切だと思っている信仰と同じくらい、自分の事を大切にしてあげてください。

 

逃げるは恥だが役に立つ

価格競争が招く悲劇…なのか?

 

こんにちは、めっきり梅雨の気候となりましたね。

洗濯物を乾かすのに四苦八苦しているのらです。

 

世の中いろんなことが起こっていますね。

怒鳴り散らす代議士に自衛隊を選挙利用とも取られかねない発言をする防衛大臣。これらに関してはもう何も言いますまい。出てくる感想はいつも同じですから。

 

今回気になったのはLCCの航空機に関する問題。

なんですかね。良くわからない事案です。

こういうニュースって一番モヤモヤする。

感想は…。

「バニラエア、災難だったな」

「渦中の男性、闇討ちみたいなことはやめましょう」

 

……………以上!!

 

そもそもバニラエアは、要介助者は搭乗5日前までに連絡を入れてほしい事。その上で係員は介助に手を出せないことをHPに明記していました。確かにこれ自体に賛否はあると思う。ただ忘れてはいけないこと。それは「バニラエア格安航空会社」だということ。

航空会社に限らず、価格を抑えるということは何かを削らなければいけないということ。それが設備なのか、はたまた人材なのか。それは各企業が決めること。だからこそお客側はどの企業を利用するかを数ある中から自由に選択することができるんだよね。

前述の通りバニラエアは事前連絡が必要な事、係員は手を貸せない事をHPに明記していました。この内容が正しいかはさておき自社がそういう会社であることを宣言しており、そこをあえて利用したうえで連絡もしなかったこの男性に全く非がなかったとは私には思えないんです。

そしてもう一つ感じたこと。それは日本の過剰なサービスです。

確かに今回の件で現場の係員は手を貸さずに見ていただけでした。少しくらい手伝ってもいいのではと感じた方もいらっしゃるでしょう。

しかし、もしかしたら介助をするためにはスタッフにある程度研修を受けさせなければいけないかもしれません。航空会社の事をよく知らないため厳密なことは申せませんが、もしそうだとするとここまで明記している会社ですからその研修は端から端折っている可能性は十分ありますよね。研修を端折ればそれだけ経費も浮かせる…。

長々と書きましたが要は「サービスもただではない」と言うことです。

サービスを生み出すために企業は予算を組んでいることだって十分あり得る。それは利用する方の安心と安全の為です。

今回もし係員が「手を貸す」という前例を作ってしまったとすると、今後は必ず手を貸さなければいけなくなります。もし介助に研修が必要だったとすれば、研修を受けずに実務となるか、はたまた研修を取り入れ格安航空の看板を返上するかのどちらかになりますが、皆さんはどちらが良いんでしょうかね。

 

私がアルバイトしていた頃の話。UFOキャッチャーのあるゲーム屋で働いていましたが、あるお客さんによくしたところその話が色々なところに伝染して収拾がつかなくなった事がありました。結局一人を特別扱いするということは、その特別扱いを通常運転にせざるを得ないということです。

その上で私はこのバニラエアの係員の対応は正解だったと思います。もし今回のお客さんを特別扱いしていたらそれこそ二度と収拾のつかなくなる大問題に発展していたと思います。

 

私自身もお客側の人間として一言。

「何でもかんでも求めすぎるのは、やめましょう」

 

沈黙

 

遠藤周作氏の「沈黙」を昨日読みました。

とても感想をうまくしゃべれるような作品ではありませんし、私には江戸時代やキリスト教に対する詳しい知識があるわけではないので、感じたことをありのままに書いていこうと思います。

 

とても有名な作品なのであらすじはあえて書きません。この作品に関してはまず映画を観るか、原作を是非読んで頂きたいと思っております。

 この作品ではキリスト教の司祭が日本国で信者の殉教を目の当たりにしたり、自らも幕府の役人に捕えられる中で、神の存在や信仰そのものを疑っていきます。

「なぜこれほどまでに信仰心を持つ者が苦しんでいるのに、あなた(イエス)は黙されるのか」と…。

 

この作品、どこを読んでもグッとくるというか、しんどいんですね。キリシタンに対して救いがなさすぎる。だけど、もしかしたらそれでよかったのかな、なんて気持ちも出てきたりします。

作中当時幕府はキリシタンを炙り出すため踏絵を踏ませていましたよね。信仰心の篤い人間ほど踏むことが出来ず悲惨な末路を辿っています。所謂殉教というものですね。でもこの当時の日本でキリシタンとなり神を信じなければやっていけないということは即ち、それだけ生活が苦しかったことの表れなんだと思うんです。既存の仏教だけでは受け止めきれず、又なんの効果もなかったから海を渡ってきたキリスト教に助けを求めた。そう考えると信仰のために殉教できた人間は、現世では「美しい殉教者」として信徒の心に残りますし、作中でロドリゴ司祭が危惧していたように日本人特有の「死後の世界=ぱらいそ」に行き、現世の劣悪な生活から解放されると本気で信じていた…。

こう考えると、確かに拷問など酷い仕打ちにあっていますがそれは「ぱらいそ」を信じているからこそ。彼らにとっては幸福への確実な道のりであったのかもしれません、

 

ではキチジローはどうでしょう。彼も隠れキリシタンであるにも関わらず何度も棄教し、果てはロドリゴ司祭をも役人に売った上でそのことを懺悔しようとする、表面上は所謂「どうしようもない人」として描かれています。どんな宗教を信じていたとしても、その教えを裏切りながらも何かあれば泣きついてくるような人間を、真っ当な信者ならどう見るでしょうか。恐らく調子のいい奴とか、弱い人間とか、そんな表現をするのではないでしょうか。

しかし作中でキチジローはこう語っています。

 

じゃが、俺にゃあ言い分があっと。踏絵ば踏んだ者には、踏んだ者の言い分があっと。踏絵をば俺が悦んで踏んだとでも思っとっとか。踏んだこの足は痛か。痛かよオ。俺を弱か者に生れさせおきながら、強か者の真似ばせろとデウスさまは仰せ出される。それは無理無法と言うもんじゃい

新潮文庫『沈黙』P178~P179

 

この言葉がキチジローの自己弁護の言葉だった可能性は大きいかもしれません。しかし、100%嘘だと誰が言い切れるでしょうか。もし本当にキチジローが信仰に重きを置いていなかったとすると、最後までロドリゴ司祭を求めて付いてくるのかどうか私には甚だ疑問です。

もしキチジローが何度も踏絵に応じたにも関わらず、信仰を捨てることができなかったとしたら、キチジローは自らの死後に絶望したことでしょう。何度も棄教し、司祭まで裏切った自分がぱらいそに行くことなど到底かなわぬ夢だと。確かに役人からも放免とされ、心身は追いつめられることなどないでしょう。しかし、今後の人生を晴れやかに生きることなど、キチジローにはできないような気がしてなりません。

 

 また内心の話でいえば物語の終盤、ロドリゴ司祭が信徒の穴吊り(逆さ吊りの拷問)か自らの棄教かを迫られる描写があります。この時目前に置かれた、摩耗して顔のないキリストの踏絵が彼に語りかけます。

 

(踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから

新潮文庫『沈黙』P294

 

もちろんこの声はロドリゴにしか聞こえていませんし、本当に踏絵が喋ったわけではありません。しかしここで初めてロドリゴはキリストが沈黙を貫いていたのではなく、いつも自分たちと苦しみを分かち合っていたこと、それがキリストの本当に教えたかった「愛の形」だったことに気付かされます。憐みの上に教えを説くのではなく、共に苦しむことこそが、自分の信仰を捨て犠牲になっても信徒を守ることこそが、教える側である司祭にできることなのだと。

このストーリーもロドリゴが自らを自己弁護するための話かもしれません。事実、ロドリゴを追いつめた筑後守は対面した折に「そのような話は自己弁護の言葉に過ぎないのではないか」とロドリゴを指摘します。しかしロドリゴは何も言い返しませんでした。言い返したところで自分が見たもの聞いたことは自分にしか理解の出来ないものであり、心の内側はどれだけ表現しても信じてもらえるわけではないからです。

立場は違えど、外部には信じてもらえなくとも内心の信仰心を捨てたわけではないという点でロドリゴとキチジローはとても似通っていると私は感じました。(他の方の感想ではこういった登場人物と実際の聖書の人物をリンクさせて考察しているものもあるので、目を通してみるのもいいかもしれません)

 

 表面上の行動と、信仰心が必ずしもリンクしないという事態は往々にしてあり得るのかもしれません。特に憲法によって宗教の自由が謳われている現代において、自らの信仰を他者に暴かれ、ましてや改宗させられるなんてことはあり得ないわけで、行動と信仰心の不一致は以前よりもその差を広げつつあるのかもしれませんね。正しい信仰を貫いているかどうかは、何をしたかではなく、なぜそのようなことをしたのかという意味づけの部分にこそ現れるのかなと、私は考えています。

まだまだ書きたいことはありますが、長くなりそうなのでこの辺で失礼いたします。

ここまで読んで頂きありがとうございます。

 

世間は都議選だってさ

 

いやいや、相当放置してしまいました。のらです。

書きたいことはたくさんあったのですが、文章にする気力が起きず放置してしまいました。大変失礼いたしました。とは言ってもこのブログを目にするのは通りすがりの数名でしょうから迷惑など起きてはいないんですけどね(笑)

 

さてさて東京は都議選一色だそうですよ。彼女もその関係でしょう、かなり忙しそうです。平日真っ当に働きながら、土日は組織の関係で動いているようで、疲弊しているなとは感じますがそれを指摘されたくないのか「大丈夫だよ!」と元気に応対してくれるのがなんだかさみしいものです。

 

これは私が選挙権を取得する前、母が学会活動をバリバリこなしていた頃の話です。

その時の選挙では公明党が苦戦を強いられていた様に記憶しています。夜中の開票速報を見ていた母が段々と不機嫌になってゆくのが手に取るようにわかりました。その時の内心まで事細かにわかったわけではありません。これだけ頑張ったのにどうして、この支援活動に何の意味があったのか、そう考えたかはわかりませんが、結局朝を迎えても母の機嫌が直ることはありませんでした。

 

外部である父にも支援を依頼していましたが、今思えば政治的知識で父に勝てるレベルであったかは非常に懐疑的でありましたし、現在至ってはそういった政治の話すら全くしない人間となってしまった母を見るにつけ、やはり公明党の支援活動に関して言えば政治を監視するなどと言う高尚な志の下行っていたわけではなく、創価学会がそういった方針だった、そしてF取りなどの成果報告をしなければならない状況があった、そして何より選挙活動をすることで功徳を得られるという思いがあったのだと思います。

 

私は創価学会の選挙活動をおかしいとは思っていますが、別に声高にやめろと叫ぶつもりも毛頭ありません。嫌なら止めればいいし、良いと思えばすればよい。それにそもそも、学会員に公明支援をお願いされても私は入れませんと宣言するか、公明党に入れなければよいだけの話です。記入した内容まで学会員が把握できるわけではないのですから、完全に投票をコントロールされているわけではないと言えるでしょう。

ただ良くわからないのは、国政選挙ならともかく地域の特色が色濃くでる地方選に関して、他道府県民が介入してくることです。これは創価学会に限らない話かもしれませんが、これでは結局地方分権なんて夢のまた夢ではないかと私は思うのです。地方政治の大部分は中央と同じ力関係を未だに維持していることを見ると、どうしても地方は中央の出先機関のように見えてしまうのです。国会ではなかなか与党に鋭い追及が出来ない野党ですが、地方政治で同じような姿かと言われればすべてがそうとは限らないと私は考えています。もしかしたら中央で野党として活動している党の公認を得ていながら、中央とは違い地方に寄り添った活動をしているかもしれません。

つまり、中央と地方を同じ括りで考えて、贔屓の政党ありきで投票に行くことは決して正しい政治参加とは言えないのではないかと、こう言いたいわけであります。

大事なのは各候補者が何を考え、どう実行に移そうとしているのか。そしてそれは今の自治体に必要な活動なのか、それを監視することが私達にできる重要な政治参加なのではないかと考えているのです。

 

少し話が逸れました。そういった感じで、選挙が近くなると投票地域に一斉に「地域交流」といった名目でなだれ込んでくる学会員さんにはもう少し冷静に考えていただきたいと、私は思っています。

 

 

そしてもうひとつ、池田大作氏の事です。

創価学会では色々な派に分かれている印象を受けます。その中でも特に多いのは池田大作氏の志を利用している現在の組織としての創価学会公明党を声高に批判する学会員です。

創価学会ではもうずいぶんと前から池田氏が会員の前に姿を見せていません。確か私が中学から高校にかけての出来事だったと思います(こんなことを書くと年齢がばれますね笑)。

姿を見せなくなってからも相変わらず本部幹部会では池田氏の数年~十数年前のスピーチの様子を映像で流し、池田氏の唱題の声に合わせてお題目を唱えることもありました。やはり学会員には池田氏がなくてはならないのだな、とその時の私は思ったものです。

あれから10年くらい経ちましたか。未だに池田氏はお元気で世界の著名人と対話をし、顕彰もされているらしいですが、実際にその姿を目にしていないので何とも言えません。

 

さて、こんな話をなぜしたのか。それは先に出た池田派且つ現在の組織に疑問を持っている方が多い、という点に繋がります。

学会員の中には「池田氏高齢だから無理はできない。それに池田氏の姿がなければなんなのか、それが信仰に関係するのか、創価学会の今後を左右するのか」という意見を持つ方も意外といらっしゃいます。その通り。

池田氏がいようといまいと信仰というものは揺らぎません。信仰とは心の作用であって、人に左右されるものではないからです。しかし実際にはその行動原理は池田氏の一挙手一投足に集まっているように感じるのは私だけでしょうか。

「全ては先生のため」

このような言葉を良く聞きます。だから公明党を支援する、だから折伏をする、だから新聞啓蒙をする…。ううん、これはちょっと違うんではないかな、と私は思うわけです。

公明党を組織したのも、創価学会本部を、そして聖教新聞を指揮したのも池田氏です。会員は恐らくそう思っているでしょう。であるならばそこには大きな責任が伴います。今現場の会員は迷いながら活動しているように私には見えます。そんなときにこそ敬愛されている池田氏の指導や助言が必要なのではないでしょうか。組織を律し、現場を安心させるその責任があります。それすらできないのは池田氏の発言が届かないよう組織がコントロールしているなんて意見も見かけましたがそれこそ笑いものになる話です。一方では池田氏の著作が聖教新聞に載り、一方で池田氏は組織にがんじがらめにされているなんて、なんとも矛盾だらけの話じゃないですか。もしもう組織を律するだけの力がないのであればそれは、たとえ肉体は生きていたとしても創価学会という巨大組織のトップとしての池田氏は死んだも同然です。

 

そんなこんなを考えながらも、彼女とは創価なんか飛び越えて、毎日楽しく暮らせればこれに越したことはないなあと思う次第です。結局好きなもんは好きでしょうがないもんね。私にはそれを宗教と天秤にかけることはできないや。

 

                                    のら

どっちもどっち

 

お久しぶりです。

更新が遅くなってしまいました、のらです。

 

更新できなかった間も様々なアンチブログを閲覧していました。

読んでいると、なんだかなあと思うことって出てくるんですよ。

私ね、創価学会の活動に関しておかしいなとか、間違っているなって感じることはたくさんあります。活動の内容だったりとか、教義の改正とか。それを正論で論破しているブログもたくさん目にしました。多分たくさん勉強されているんだなあと感じます。

でもね、それって結局創価学会に伝わったところでどうなるんですか、と思うんですよ。学会だって教義がおかしいことくらいきっと自覚していて、それでも今の状態で会員に通じているからこれでいいかって、多分それくらいの認識なんだと思います。

いや、通じているというより学会員はそんな細かい教義や御書なんて勉強すらしていないんじゃないかな。それを良しとしている団体ですよ。そんな団体を一ブログで論破して一体何になるんでしょうか。仮に現場の学会員がそんなブログを見たところで何の感情も湧かないどころか、こいつは我見の信心だ、などと言われるだけですよ。

別に学会員に向けて書いているわけではないと言われるかもしれませんが、そういうブログって大体が創価学会の取り上げている教義や御書のここが違うとか、歴史的に見ればとか、そういう書き方なんですよね。これが宗教学者相手なら論破ともなりますが、最早宗教団体ですらない創価学会に向けて発言したところで相手からしたら痛くもかゆくもないんですよね。

それどころか、結局そうやって創価学会をやり玉にあげることによって宗教的思想対立を(創価学会が宗教団体と呼べれば、の話ですが)深めているということに、自分が嫌っている創価学会とやっていることは同じだということに、早く気付くべきだと思います。

『書くなら創価学会関係なく書く』

これが出来なければ結局創価学会からの覚醒なんてできないと、多くの方々のブログを読んで痛感しました。

言葉遊びをしている場合では…。

 

こんにちは、のらです。

現在私の住んでいる地域ではかなり天気が悪く、寒さも今年一番と言う感じがしています。こんな日でも予定があるので深夜から出なければなりません。ホッカイロだけが友達です。

 

さて、今回はちょっと創価関連を離れます。といっても完全に離れるかはわかりません。というのも政治の話、と自衛隊の問題に関して書きたいからなんです。これは「平和の党」を名乗る与党の一角、公明党にも関わる問題ですからね。

さあ、では本題へ入っていきましょう。

 

先日稲田防衛大臣の発言及び南スーダンへ派遣されている自衛隊からの報告書が国会で問題となっています。

 

詳細はこうです。

現在南スーダンPKO(国連平和維持活動)のために派遣されている自衛隊からの状況報告書類上に「戦闘」という言葉が使用されていたことから始まりました。

 

日本国憲法第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】

  1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
  2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 

これが日本国憲法第9条、平和憲法と言われる所以ですね。

簡単に言えば、日本は

①こちらから能動的に戦争を仕掛けません。

国際紛争を解決するために武力を使用しません。

そして、上記を達成するために

イ、戦力となるような軍隊は置きません。

ロ、戦争をすることを許しません。

というような意味だと解釈してください。ただここも様々な議論が必要だと思います。なにせ日本国憲法が作成されたのは戦後間もなく。そこから70年以上が経ち国際情勢はがらりと変わりました。それに合わせて憲法も形を変えていく必要があると思うのです。

そもそも当該憲法を作成した当時、主導となったアメリカは自国の軍を駐留させ、完全に日本を防衛する代わりに軍隊又は軍隊となるような組織その他を一切排除したかったのだと思います。しかしベトナム戦争等でアメリカにその余裕がなくなったがため、警察の別組織として「警察予備隊」というものが組織され、それが時を経て現在の自衛隊へと移り変わっていった…。

 

自衛隊だって銃火器は使用しますし、これは立派な「戦力」でしょう。どんな理屈をつけようと、これは覆りません。

 

今回重要なのはこの部分ではないので省略しますが。

 

今回問題となっているのは現在派遣されている自衛隊が報告書類に「戦闘」という言葉を使ったことでした。

上記のように、日本は憲法で「国際紛争解決のため、武力は使用しない」と明言しています。しかし、紛争地帯である南スーダンに駐留する自衛隊は報告書に「戦闘」という言葉を使っている。これは憲法に反し、国外で武力を行使したのではないか?

とまあこうなるわけです。

 

これに対し稲田防衛大臣は答弁で

使用された“戦闘”という言葉は一般用語的使用であって、法的な意味の“戦闘”ではなかった

(現地の治安は)武器を使った殺傷・物の破壊があったことは確かだが、国際的な武力紛争の一環としての戦闘行為とは認定できず、PKO5原則には抵触しない

と発言したと報道されています。

国会の答弁を全て聞いたわけではありませんので、恣意的に切り取られた可能性は拭いきれませんが、この部分を聞く限り最早訳がわかりません。

一つ目に関しては恐らく、辞書的な意味での「戦闘」であって、憲法が定めるような武力行使としての「戦闘」ではなかったということなのでしょう。

つまり、憲法が禁止している武力行使以外の戦闘でした、ということ。

 

…はあ?

 

全く意味が分かりません。いや、言いたいことは分かりますよ。自分たちが送り出した自衛隊ですから、それが国外で憲法に反したことをやっていたなんて認めたくはないでしょう。そのための言い訳に過ぎません。現地の状況が分からないためなんとも言えませんが、紛争地帯に送り出された自衛隊が武力を持って応戦したということを、こう言い換えているならば最早何でも有りじゃないですか。

どういった行為が行われたのか、それによってどういった結果が発生したのかを検証しなければ、これは答えの出ないことです。検証してもくすぶり続ける問題かもしれないにも関わらず、あまつさえその報告書を破棄してしまったというのですからもうひっちゃかめっちゃかですよ。どういうことなんですか、そんな重要書類を破棄するなんて。

 

因みにPKO5原則についても少し触れます。

以下、外務省HP(http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/pko/q_a.html)より引用。

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  1. 紛争当事者の間で停戦合意が成立していること
  2. 国連平和維持隊が活動する地域の属する国及び紛争当事者が当該国連平和維持隊の活動及び当該平和維持隊への我が国の参加に同意していること。
  3. 当該国連平和維持隊が特定の紛争当事者に偏ることなく、中立的立場を厳守すること。
  4. 上記の原則のいずれかが満たされない状況が生じた場合には、我が国から参加した部隊は撤収することができること。
  5. 武器の使用は、要員の生命等の防護のための必要最小限のものを基本。受入れ同意が安定的に維持されていることが確認されている場合、いわゆる安全確保業務及びいわゆる駆け付け警護の実施に当たり、自己保存型及び武器等防護を超える武器使用が可能。

引用終了。

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稲田さんが発言の二つ目である「国際的な武力紛争の一環としての戦闘行為とは認定できず」とは、南スーダン内で上記原則の1~3が満たされなかったために、本来であれば自衛隊を撤収しなければならないにも関わらず、現地に留めておいたがため戦闘行為を行うに至ってしまった、という訳ではないということに加え、今回の「戦闘」が5に該当するものだった、ということを複合的に語っているものなのでしょうか。凡人の私にはその真意が分かりません。

 

どちらにせよ、やはり「駆けつけ警護」に関してはもっと国内で議論をしておくべきだったと思います。あまりに早急すぎる結論でした。

公明党は「自民党のブレーキ役」等と言われていますが、寧ろ間違ってアクセルを踏み込んでしまう現代の高齢者ドライバーさながらですね、全く笑えません。

 

 

こういった言葉遊びのような問題や、バツが悪くなると情報を出さずだんまりを決め込むことももちろんそうですが、それ以上に関連ニュースでがっかりしたのは民進党後藤祐一衆議院議員が稲田防衛大臣への辞任を要求していることでした。結局どこも自分たちが政権を取ることを目指しているだけなんだなと改めて実感しました。

今やることは辞任の要求なんですか?違うでしょう。辞めること・辞めさせることなんていつでもできる。今やらなければならないのは事実関係の確認と、法律の見直しなんじゃないんですか。

責任の所在が明らかになったところで派遣された自衛隊の置かれている状況は何一つ変わらない。今回の件も報道では

『戦車や迫撃砲を使用した戦闘だった』

とされているところもあります。こちらがそれだけの方法を取れば、必ず相手だってそれ相応の手段をとってくることでしょう。これではいくら国内で「法的な戦闘ではなかった」と語ったところで状況は悪化していくだけではないのかと、私は考えています。

 

 

そして何よりも問題なのはこういったことに関心のない人間が多すぎるということ。問題を認識できていない人間、認識しようともしない人間が多いと私は思います。

思うに今の日本に「唯一の被爆国」などと声高に語れる資格はないと思うのです。国民も国家も、平和を作り出そうと努力しているのではなく、ただ国外の問題に目を瞑り、見ないようにしているだけ。積極的な関わりを持たず、自分たちの領域が侵されないようにしているだけなのだと思うのです。

そういった意識を一人ひとりが変え、本当の意味で政治を監視するようになるとき、世界は今より少し良くなるのかもしれません。

せめて、まずは自分からという意識を持って政治や国際情勢に関する知識を蓄え、何が出来るのかを考えていきたいと思います。

母との衝突で学んだこと

 

こんにちは、唇がカサカサでリップクリームが手放せないのらです。

これがないと唇が血だらけになる勢いです。

 

 

さて、今回はあまり創価とは関係ない話になりそうです。

 

私の母の話。

先に言っておくとかなり短気で好戦的、それでもって気分屋です。多分私もそんな性格を受け継いだのかもしれません。かなり短気です。しかし父の寡黙や波風を立たせないという性格も受け継いだためか、内に溜め込みがち。その辺りは母と真逆です。

 

そんな母とはよく衝突します。回数でいえば年6回程度でしょうか。ただ一回一回が長期化するため、実際よりもかなり長く感じ、体力消費も激しいです。母がそれだけ元気でいられるならそれはそれでいいのですが。

こんな母と幾度となく衝突しているわけですから、対処法なども何となくわかってきます。この経験は後々かなり役に立っているということに最近気付きました。

 

これまで何度も書いている通り、私の彼女は真面目な学会員です。先日も色々と話をしましたが、とうとう「出来れば信心している人と結婚したい」と言う趣旨のことを言われてしまいました(笑)

 

これはある意味想定内でしたので今回は話題にしません。

まあそれは置いておいて。

 

彼女との会話をするにあたり、母との衝突がとても重要な意味を持っていたということに先日気付いたと同時に、ある種の感謝のような思いも浮かんできました。

 

母は基本的に何に怒っているのかわかりません。なので「まずは話を聞くこと」が大事です。そうすると、次第に論点が分かってくると同時に、本人も何を核に会話を構築しているのか多分整理できていないということが分かってきます。枝葉があっちこっちに広がりすぎて、相手にどうしてほしいのかわからなくなってしまっているんですね。

 

相手の話、気持ちの矛先を理解したら次のステップです。「反論はしない」ということ。

母は事あるごとに言います。『何か不満があったら伝えてくれ』と。しかし実際はいつでも伝えることが出来るわけではなく、気分のいい時にしか伝えられません。ましてやこういったバトル中にその話題をこちらから出そうものなら二言目には『私が全部悪かったんですね』が出てきてしまい、もう収拾がつかなくなります。なので口にできる言葉は謝罪のみ。いくらこちらが悪いことでなくても頭を下げること、これにより多少のクールダウンを促すことが出来ます。問題の根本解決には至りませんが、これをするのとしないのでは大きな差が生れます。

そもそもこういった場面において女性が重要視するのは“話の整合性”よりも“感情”なんです。これを勘違いしがちな男性って意外と多いと思います。

いくらこちら側の意見が正しく整合性がとれていたとしても、相手にとってはそれはどうでもいいことで、じゃあこの収まらない気持ちをあなた(男性側)は受け止めてくれるんですか、となってしまうことが往々にしてあります。これが男性女性の噛み合わなさの原因になっているんだと思います。

 

ですからまず「話を聞く」ことに始まり「反論はせず」「謝罪の気持ちを伝える」ということ。これが素で出来る人はすごいですね。プロのビジネスマン、ビジネスマンと言うよりは営業職などに向いていそうです。まあ言わなければいけないことは時期を見て伝えることが大事ですが、おおむねこのステップを踏むように行動すると、鎮火は少し早まると思います。

 

ここまでの方法って、先日の彼女との会話にも大いに活躍してくれているんですよね。会話の流れ上謝ったりすることは別段ありませんでしたが、「話を聞き」「反論はしない」ということは、真面目な学会員さんとのお話の中では重要になります。

話を聞くという行為は相手にとって“この人は理解しようとしてくれている”と思ってもらえる、つまり距離を近付けるために大事な行程なんですね。もちろん相手の言葉の真意をしっかり理解することも重要ですが、それができなくとも「話を聞く姿勢」を相手に見せることが重要になります。

 

そして無暗に反論をしない。自分としてはそれは違うと信じていることも、相手にとっては真である限り、その反論は火に油を注ぐだけです。なので反論はしないこと。

しかし黙っているだけでは根本的な解決にはなりません。ここでポイントになるのは…

 

“質問すること”

 

こちらの意見をただぶつけるのではなく質問と言う形に変換します。これによりまず、相手は“こちらをより知ろうとしてくれている”と感じます。これは大きい!!

そしてこの質問にもちょっとばかりテクニックが必要です。相手が少し考えなければならない質問を出来るようにしましょう。ここまで相手は自分の気持ちを吐き出すことだけに専念してきました。それを相手の内に少しだけ封じ込めます。これにより少しばかり時間を置くことができ、自分だけでなく相手も落ち着くことが期待できます。

こちらから質問を投げかけ、それを相手に答えさせる。こうすることで相手が握っていた流れをこちら側に傾けることもできます。

 

 

あまり推奨できることではありませんが、例えば相手が学会の信仰に悩んでいたとします。そういった相手にわざと質問をいくつかぶつけるんです。答えがある程度決まっている質問を。それを相手に答えさせることで、相手の一歩踏み出せない気持ちを後押しする、なんてこともできます。これはかなり流れを掌握しないと難しいですが。

 

 

閑話休題

質問と言うのは便利なもので、相手への興味と自分の主張を共に伝えることのできる強力な武器になるんですよね。これを使わない手はありませんね!!

 

ここまでのプロセスを喧嘩になる前に使うことが出来れば、大火事になることは極力回避できそうだと、今までの経験上から言えます。

もちろん男性女性問わず色々な方がいらっしゃいますから一概には言えませんが、ここに挙げたポイントを踏まえれば、創価関連でパートナーや家族と拗れている方と今までよりも円滑なコミュニケーションをとることができるかもしれません。

また創価関連だけではなく職場や家庭内でも、今までよりもちょっといい関係を構築できるかもしれません。

 

喧嘩ではなく有意義な“語らい”を持ちたいものです。