学会3世の徒然日記

学会3世としてのことや、日常のあれこれを書いていきます。

沈黙

 

遠藤周作氏の「沈黙」を昨日読みました。

とても感想をうまくしゃべれるような作品ではありませんし、私には江戸時代やキリスト教に対する詳しい知識があるわけではないので、感じたことをありのままに書いていこうと思います。

 

とても有名な作品なのであらすじはあえて書きません。この作品に関してはまず映画を観るか、原作を是非読んで頂きたいと思っております。

 この作品ではキリスト教の司祭が日本国で信者の殉教を目の当たりにしたり、自らも幕府の役人に捕えられる中で、神の存在や信仰そのものを疑っていきます。

「なぜこれほどまでに信仰心を持つ者が苦しんでいるのに、あなた(イエス)は黙されるのか」と…。

 

この作品、どこを読んでもグッとくるというか、しんどいんですね。キリシタンに対して救いがなさすぎる。だけど、もしかしたらそれでよかったのかな、なんて気持ちも出てきたりします。

作中当時幕府はキリシタンを炙り出すため踏絵を踏ませていましたよね。信仰心の篤い人間ほど踏むことが出来ず悲惨な末路を辿っています。所謂殉教というものですね。でもこの当時の日本でキリシタンとなり神を信じなければやっていけないということは即ち、それだけ生活が苦しかったことの表れなんだと思うんです。既存の仏教だけでは受け止めきれず、又なんの効果もなかったから海を渡ってきたキリスト教に助けを求めた。そう考えると信仰のために殉教できた人間は、現世では「美しい殉教者」として信徒の心に残りますし、作中でロドリゴ司祭が危惧していたように日本人特有の「死後の世界=ぱらいそ」に行き、現世の劣悪な生活から解放されると本気で信じていた…。

こう考えると、確かに拷問など酷い仕打ちにあっていますがそれは「ぱらいそ」を信じているからこそ。彼らにとっては幸福への確実な道のりであったのかもしれません、

 

ではキチジローはどうでしょう。彼も隠れキリシタンであるにも関わらず何度も棄教し、果てはロドリゴ司祭をも役人に売った上でそのことを懺悔しようとする、表面上は所謂「どうしようもない人」として描かれています。どんな宗教を信じていたとしても、その教えを裏切りながらも何かあれば泣きついてくるような人間を、真っ当な信者ならどう見るでしょうか。恐らく調子のいい奴とか、弱い人間とか、そんな表現をするのではないでしょうか。

しかし作中でキチジローはこう語っています。

 

じゃが、俺にゃあ言い分があっと。踏絵ば踏んだ者には、踏んだ者の言い分があっと。踏絵をば俺が悦んで踏んだとでも思っとっとか。踏んだこの足は痛か。痛かよオ。俺を弱か者に生れさせおきながら、強か者の真似ばせろとデウスさまは仰せ出される。それは無理無法と言うもんじゃい

新潮文庫『沈黙』P178~P179

 

この言葉がキチジローの自己弁護の言葉だった可能性は大きいかもしれません。しかし、100%嘘だと誰が言い切れるでしょうか。もし本当にキチジローが信仰に重きを置いていなかったとすると、最後までロドリゴ司祭を求めて付いてくるのかどうか私には甚だ疑問です。

もしキチジローが何度も踏絵に応じたにも関わらず、信仰を捨てることができなかったとしたら、キチジローは自らの死後に絶望したことでしょう。何度も棄教し、司祭まで裏切った自分がぱらいそに行くことなど到底かなわぬ夢だと。確かに役人からも放免とされ、心身は追いつめられることなどないでしょう。しかし、今後の人生を晴れやかに生きることなど、キチジローにはできないような気がしてなりません。

 

 また内心の話でいえば物語の終盤、ロドリゴ司祭が信徒の穴吊り(逆さ吊りの拷問)か自らの棄教かを迫られる描写があります。この時目前に置かれた、摩耗して顔のないキリストの踏絵が彼に語りかけます。

 

(踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから

新潮文庫『沈黙』P294

 

もちろんこの声はロドリゴにしか聞こえていませんし、本当に踏絵が喋ったわけではありません。しかしここで初めてロドリゴはキリストが沈黙を貫いていたのではなく、いつも自分たちと苦しみを分かち合っていたこと、それがキリストの本当に教えたかった「愛の形」だったことに気付かされます。憐みの上に教えを説くのではなく、共に苦しむことこそが、自分の信仰を捨て犠牲になっても信徒を守ることこそが、教える側である司祭にできることなのだと。

このストーリーもロドリゴが自らを自己弁護するための話かもしれません。事実、ロドリゴを追いつめた筑後守は対面した折に「そのような話は自己弁護の言葉に過ぎないのではないか」とロドリゴを指摘します。しかしロドリゴは何も言い返しませんでした。言い返したところで自分が見たもの聞いたことは自分にしか理解の出来ないものであり、心の内側はどれだけ表現しても信じてもらえるわけではないからです。

立場は違えど、外部には信じてもらえなくとも内心の信仰心を捨てたわけではないという点でロドリゴとキチジローはとても似通っていると私は感じました。(他の方の感想ではこういった登場人物と実際の聖書の人物をリンクさせて考察しているものもあるので、目を通してみるのもいいかもしれません)

 

 表面上の行動と、信仰心が必ずしもリンクしないという事態は往々にしてあり得るのかもしれません。特に憲法によって宗教の自由が謳われている現代において、自らの信仰を他者に暴かれ、ましてや改宗させられるなんてことはあり得ないわけで、行動と信仰心の不一致は以前よりもその差を広げつつあるのかもしれませんね。正しい信仰を貫いているかどうかは、何をしたかではなく、なぜそのようなことをしたのかという意味づけの部分にこそ現れるのかなと、私は考えています。

まだまだ書きたいことはありますが、長くなりそうなのでこの辺で失礼いたします。

ここまで読んで頂きありがとうございます。

 

世間は都議選だってさ

 

いやいや、相当放置してしまいました。のらです。

書きたいことはたくさんあったのですが、文章にする気力が起きず放置してしまいました。大変失礼いたしました。とは言ってもこのブログを目にするのは通りすがりの数名でしょうから迷惑など起きてはいないんですけどね(笑)

 

さてさて東京は都議選一色だそうですよ。彼女もその関係でしょう、かなり忙しそうです。平日真っ当に働きながら、土日は組織の関係で動いているようで、疲弊しているなとは感じますがそれを指摘されたくないのか「大丈夫だよ!」と元気に応対してくれるのがなんだかさみしいものです。

 

これは私が選挙権を取得する前、母が学会活動をバリバリこなしていた頃の話です。

その時の選挙では公明党が苦戦を強いられていた様に記憶しています。夜中の開票速報を見ていた母が段々と不機嫌になってゆくのが手に取るようにわかりました。その時の内心まで事細かにわかったわけではありません。これだけ頑張ったのにどうして、この支援活動に何の意味があったのか、そう考えたかはわかりませんが、結局朝を迎えても母の機嫌が直ることはありませんでした。

 

外部である父にも支援を依頼していましたが、今思えば政治的知識で父に勝てるレベルであったかは非常に懐疑的でありましたし、現在至ってはそういった政治の話すら全くしない人間となってしまった母を見るにつけ、やはり公明党の支援活動に関して言えば政治を監視するなどと言う高尚な志の下行っていたわけではなく、創価学会がそういった方針だった、そしてF取りなどの成果報告をしなければならない状況があった、そして何より選挙活動をすることで功徳を得られるという思いがあったのだと思います。

 

私は創価学会の選挙活動をおかしいとは思っていますが、別に声高にやめろと叫ぶつもりも毛頭ありません。嫌なら止めればいいし、良いと思えばすればよい。それにそもそも、学会員に公明支援をお願いされても私は入れませんと宣言するか、公明党に入れなければよいだけの話です。記入した内容まで学会員が把握できるわけではないのですから、完全に投票をコントロールされているわけではないと言えるでしょう。

ただ良くわからないのは、国政選挙ならともかく地域の特色が色濃くでる地方選に関して、他道府県民が介入してくることです。これは創価学会に限らない話かもしれませんが、これでは結局地方分権なんて夢のまた夢ではないかと私は思うのです。地方政治の大部分は中央と同じ力関係を未だに維持していることを見ると、どうしても地方は中央の出先機関のように見えてしまうのです。国会ではなかなか与党に鋭い追及が出来ない野党ですが、地方政治で同じような姿かと言われればすべてがそうとは限らないと私は考えています。もしかしたら中央で野党として活動している党の公認を得ていながら、中央とは違い地方に寄り添った活動をしているかもしれません。

つまり、中央と地方を同じ括りで考えて、贔屓の政党ありきで投票に行くことは決して正しい政治参加とは言えないのではないかと、こう言いたいわけであります。

大事なのは各候補者が何を考え、どう実行に移そうとしているのか。そしてそれは今の自治体に必要な活動なのか、それを監視することが私達にできる重要な政治参加なのではないかと考えているのです。

 

少し話が逸れました。そういった感じで、選挙が近くなると投票地域に一斉に「地域交流」といった名目でなだれ込んでくる学会員さんにはもう少し冷静に考えていただきたいと、私は思っています。

 

 

そしてもうひとつ、池田大作氏の事です。

創価学会では色々な派に分かれている印象を受けます。その中でも特に多いのは池田大作氏の志を利用している現在の組織としての創価学会公明党を声高に批判する学会員です。

創価学会ではもうずいぶんと前から池田氏が会員の前に姿を見せていません。確か私が中学から高校にかけての出来事だったと思います(こんなことを書くと年齢がばれますね笑)。

姿を見せなくなってからも相変わらず本部幹部会では池田氏の数年~十数年前のスピーチの様子を映像で流し、池田氏の唱題の声に合わせてお題目を唱えることもありました。やはり学会員には池田氏がなくてはならないのだな、とその時の私は思ったものです。

あれから10年くらい経ちましたか。未だに池田氏はお元気で世界の著名人と対話をし、顕彰もされているらしいですが、実際にその姿を目にしていないので何とも言えません。

 

さて、こんな話をなぜしたのか。それは先に出た池田派且つ現在の組織に疑問を持っている方が多い、という点に繋がります。

学会員の中には「池田氏高齢だから無理はできない。それに池田氏の姿がなければなんなのか、それが信仰に関係するのか、創価学会の今後を左右するのか」という意見を持つ方も意外といらっしゃいます。その通り。

池田氏がいようといまいと信仰というものは揺らぎません。信仰とは心の作用であって、人に左右されるものではないからです。しかし実際にはその行動原理は池田氏の一挙手一投足に集まっているように感じるのは私だけでしょうか。

「全ては先生のため」

このような言葉を良く聞きます。だから公明党を支援する、だから折伏をする、だから新聞啓蒙をする…。ううん、これはちょっと違うんではないかな、と私は思うわけです。

公明党を組織したのも、創価学会本部を、そして聖教新聞を指揮したのも池田氏です。会員は恐らくそう思っているでしょう。であるならばそこには大きな責任が伴います。今現場の会員は迷いながら活動しているように私には見えます。そんなときにこそ敬愛されている池田氏の指導や助言が必要なのではないでしょうか。組織を律し、現場を安心させるその責任があります。それすらできないのは池田氏の発言が届かないよう組織がコントロールしているなんて意見も見かけましたがそれこそ笑いものになる話です。一方では池田氏の著作が聖教新聞に載り、一方で池田氏は組織にがんじがらめにされているなんて、なんとも矛盾だらけの話じゃないですか。もしもう組織を律するだけの力がないのであればそれは、たとえ肉体は生きていたとしても創価学会という巨大組織のトップとしての池田氏は死んだも同然です。

 

そんなこんなを考えながらも、彼女とは創価なんか飛び越えて、毎日楽しく暮らせればこれに越したことはないなあと思う次第です。結局好きなもんは好きでしょうがないもんね。私にはそれを宗教と天秤にかけることはできないや。

 

                                    のら

どっちもどっち

 

お久しぶりです。

更新が遅くなってしまいました、のらです。

 

更新できなかった間も様々なアンチブログを閲覧していました。

読んでいると、なんだかなあと思うことって出てくるんですよ。

私ね、創価学会の活動に関しておかしいなとか、間違っているなって感じることはたくさんあります。活動の内容だったりとか、教義の改正とか。それを正論で論破しているブログもたくさん目にしました。多分たくさん勉強されているんだなあと感じます。

でもね、それって結局創価学会に伝わったところでどうなるんですか、と思うんですよ。学会だって教義がおかしいことくらいきっと自覚していて、それでも今の状態で会員に通じているからこれでいいかって、多分それくらいの認識なんだと思います。

いや、通じているというより学会員はそんな細かい教義や御書なんて勉強すらしていないんじゃないかな。それを良しとしている団体ですよ。そんな団体を一ブログで論破して一体何になるんでしょうか。仮に現場の学会員がそんなブログを見たところで何の感情も湧かないどころか、こいつは我見の信心だ、などと言われるだけですよ。

別に学会員に向けて書いているわけではないと言われるかもしれませんが、そういうブログって大体が創価学会の取り上げている教義や御書のここが違うとか、歴史的に見ればとか、そういう書き方なんですよね。これが宗教学者相手なら論破ともなりますが、最早宗教団体ですらない創価学会に向けて発言したところで相手からしたら痛くもかゆくもないんですよね。

それどころか、結局そうやって創価学会をやり玉にあげることによって宗教的思想対立を(創価学会が宗教団体と呼べれば、の話ですが)深めているということに、自分が嫌っている創価学会とやっていることは同じだということに、早く気付くべきだと思います。

『書くなら創価学会関係なく書く』

これが出来なければ結局創価学会からの覚醒なんてできないと、多くの方々のブログを読んで痛感しました。

言葉遊びをしている場合では…。

 

こんにちは、のらです。

現在私の住んでいる地域ではかなり天気が悪く、寒さも今年一番と言う感じがしています。こんな日でも予定があるので深夜から出なければなりません。ホッカイロだけが友達です。

 

さて、今回はちょっと創価関連を離れます。といっても完全に離れるかはわかりません。というのも政治の話、と自衛隊の問題に関して書きたいからなんです。これは「平和の党」を名乗る与党の一角、公明党にも関わる問題ですからね。

さあ、では本題へ入っていきましょう。

 

先日稲田防衛大臣の発言及び南スーダンへ派遣されている自衛隊からの報告書が国会で問題となっています。

 

詳細はこうです。

現在南スーダンPKO(国連平和維持活動)のために派遣されている自衛隊からの状況報告書類上に「戦闘」という言葉が使用されていたことから始まりました。

 

日本国憲法第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】

  1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
  2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 

これが日本国憲法第9条、平和憲法と言われる所以ですね。

簡単に言えば、日本は

①こちらから能動的に戦争を仕掛けません。

国際紛争を解決するために武力を使用しません。

そして、上記を達成するために

イ、戦力となるような軍隊は置きません。

ロ、戦争をすることを許しません。

というような意味だと解釈してください。ただここも様々な議論が必要だと思います。なにせ日本国憲法が作成されたのは戦後間もなく。そこから70年以上が経ち国際情勢はがらりと変わりました。それに合わせて憲法も形を変えていく必要があると思うのです。

そもそも当該憲法を作成した当時、主導となったアメリカは自国の軍を駐留させ、完全に日本を防衛する代わりに軍隊又は軍隊となるような組織その他を一切排除したかったのだと思います。しかしベトナム戦争等でアメリカにその余裕がなくなったがため、警察の別組織として「警察予備隊」というものが組織され、それが時を経て現在の自衛隊へと移り変わっていった…。

 

自衛隊だって銃火器は使用しますし、これは立派な「戦力」でしょう。どんな理屈をつけようと、これは覆りません。

 

今回重要なのはこの部分ではないので省略しますが。

 

今回問題となっているのは現在派遣されている自衛隊が報告書類に「戦闘」という言葉を使ったことでした。

上記のように、日本は憲法で「国際紛争解決のため、武力は使用しない」と明言しています。しかし、紛争地帯である南スーダンに駐留する自衛隊は報告書に「戦闘」という言葉を使っている。これは憲法に反し、国外で武力を行使したのではないか?

とまあこうなるわけです。

 

これに対し稲田防衛大臣は答弁で

使用された“戦闘”という言葉は一般用語的使用であって、法的な意味の“戦闘”ではなかった

(現地の治安は)武器を使った殺傷・物の破壊があったことは確かだが、国際的な武力紛争の一環としての戦闘行為とは認定できず、PKO5原則には抵触しない

と発言したと報道されています。

国会の答弁を全て聞いたわけではありませんので、恣意的に切り取られた可能性は拭いきれませんが、この部分を聞く限り最早訳がわかりません。

一つ目に関しては恐らく、辞書的な意味での「戦闘」であって、憲法が定めるような武力行使としての「戦闘」ではなかったということなのでしょう。

つまり、憲法が禁止している武力行使以外の戦闘でした、ということ。

 

…はあ?

 

全く意味が分かりません。いや、言いたいことは分かりますよ。自分たちが送り出した自衛隊ですから、それが国外で憲法に反したことをやっていたなんて認めたくはないでしょう。そのための言い訳に過ぎません。現地の状況が分からないためなんとも言えませんが、紛争地帯に送り出された自衛隊が武力を持って応戦したということを、こう言い換えているならば最早何でも有りじゃないですか。

どういった行為が行われたのか、それによってどういった結果が発生したのかを検証しなければ、これは答えの出ないことです。検証してもくすぶり続ける問題かもしれないにも関わらず、あまつさえその報告書を破棄してしまったというのですからもうひっちゃかめっちゃかですよ。どういうことなんですか、そんな重要書類を破棄するなんて。

 

因みにPKO5原則についても少し触れます。

以下、外務省HP(http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/pko/q_a.html)より引用。

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  1. 紛争当事者の間で停戦合意が成立していること
  2. 国連平和維持隊が活動する地域の属する国及び紛争当事者が当該国連平和維持隊の活動及び当該平和維持隊への我が国の参加に同意していること。
  3. 当該国連平和維持隊が特定の紛争当事者に偏ることなく、中立的立場を厳守すること。
  4. 上記の原則のいずれかが満たされない状況が生じた場合には、我が国から参加した部隊は撤収することができること。
  5. 武器の使用は、要員の生命等の防護のための必要最小限のものを基本。受入れ同意が安定的に維持されていることが確認されている場合、いわゆる安全確保業務及びいわゆる駆け付け警護の実施に当たり、自己保存型及び武器等防護を超える武器使用が可能。

引用終了。

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稲田さんが発言の二つ目である「国際的な武力紛争の一環としての戦闘行為とは認定できず」とは、南スーダン内で上記原則の1~3が満たされなかったために、本来であれば自衛隊を撤収しなければならないにも関わらず、現地に留めておいたがため戦闘行為を行うに至ってしまった、という訳ではないということに加え、今回の「戦闘」が5に該当するものだった、ということを複合的に語っているものなのでしょうか。凡人の私にはその真意が分かりません。

 

どちらにせよ、やはり「駆けつけ警護」に関してはもっと国内で議論をしておくべきだったと思います。あまりに早急すぎる結論でした。

公明党は「自民党のブレーキ役」等と言われていますが、寧ろ間違ってアクセルを踏み込んでしまう現代の高齢者ドライバーさながらですね、全く笑えません。

 

 

こういった言葉遊びのような問題や、バツが悪くなると情報を出さずだんまりを決め込むことももちろんそうですが、それ以上に関連ニュースでがっかりしたのは民進党後藤祐一衆議院議員が稲田防衛大臣への辞任を要求していることでした。結局どこも自分たちが政権を取ることを目指しているだけなんだなと改めて実感しました。

今やることは辞任の要求なんですか?違うでしょう。辞めること・辞めさせることなんていつでもできる。今やらなければならないのは事実関係の確認と、法律の見直しなんじゃないんですか。

責任の所在が明らかになったところで派遣された自衛隊の置かれている状況は何一つ変わらない。今回の件も報道では

『戦車や迫撃砲を使用した戦闘だった』

とされているところもあります。こちらがそれだけの方法を取れば、必ず相手だってそれ相応の手段をとってくることでしょう。これではいくら国内で「法的な戦闘ではなかった」と語ったところで状況は悪化していくだけではないのかと、私は考えています。

 

 

そして何よりも問題なのはこういったことに関心のない人間が多すぎるということ。問題を認識できていない人間、認識しようともしない人間が多いと私は思います。

思うに今の日本に「唯一の被爆国」などと声高に語れる資格はないと思うのです。国民も国家も、平和を作り出そうと努力しているのではなく、ただ国外の問題に目を瞑り、見ないようにしているだけ。積極的な関わりを持たず、自分たちの領域が侵されないようにしているだけなのだと思うのです。

そういった意識を一人ひとりが変え、本当の意味で政治を監視するようになるとき、世界は今より少し良くなるのかもしれません。

せめて、まずは自分からという意識を持って政治や国際情勢に関する知識を蓄え、何が出来るのかを考えていきたいと思います。

母との衝突で学んだこと

 

こんにちは、唇がカサカサでリップクリームが手放せないのらです。

これがないと唇が血だらけになる勢いです。

 

 

さて、今回はあまり創価とは関係ない話になりそうです。

 

私の母の話。

先に言っておくとかなり短気で好戦的、それでもって気分屋です。多分私もそんな性格を受け継いだのかもしれません。かなり短気です。しかし父の寡黙や波風を立たせないという性格も受け継いだためか、内に溜め込みがち。その辺りは母と真逆です。

 

そんな母とはよく衝突します。回数でいえば年6回程度でしょうか。ただ一回一回が長期化するため、実際よりもかなり長く感じ、体力消費も激しいです。母がそれだけ元気でいられるならそれはそれでいいのですが。

こんな母と幾度となく衝突しているわけですから、対処法なども何となくわかってきます。この経験は後々かなり役に立っているということに最近気付きました。

 

これまで何度も書いている通り、私の彼女は真面目な学会員です。先日も色々と話をしましたが、とうとう「出来れば信心している人と結婚したい」と言う趣旨のことを言われてしまいました(笑)

 

これはある意味想定内でしたので今回は話題にしません。

まあそれは置いておいて。

 

彼女との会話をするにあたり、母との衝突がとても重要な意味を持っていたということに先日気付いたと同時に、ある種の感謝のような思いも浮かんできました。

 

母は基本的に何に怒っているのかわかりません。なので「まずは話を聞くこと」が大事です。そうすると、次第に論点が分かってくると同時に、本人も何を核に会話を構築しているのか多分整理できていないということが分かってきます。枝葉があっちこっちに広がりすぎて、相手にどうしてほしいのかわからなくなってしまっているんですね。

 

相手の話、気持ちの矛先を理解したら次のステップです。「反論はしない」ということ。

母は事あるごとに言います。『何か不満があったら伝えてくれ』と。しかし実際はいつでも伝えることが出来るわけではなく、気分のいい時にしか伝えられません。ましてやこういったバトル中にその話題をこちらから出そうものなら二言目には『私が全部悪かったんですね』が出てきてしまい、もう収拾がつかなくなります。なので口にできる言葉は謝罪のみ。いくらこちらが悪いことでなくても頭を下げること、これにより多少のクールダウンを促すことが出来ます。問題の根本解決には至りませんが、これをするのとしないのでは大きな差が生れます。

そもそもこういった場面において女性が重要視するのは“話の整合性”よりも“感情”なんです。これを勘違いしがちな男性って意外と多いと思います。

いくらこちら側の意見が正しく整合性がとれていたとしても、相手にとってはそれはどうでもいいことで、じゃあこの収まらない気持ちをあなた(男性側)は受け止めてくれるんですか、となってしまうことが往々にしてあります。これが男性女性の噛み合わなさの原因になっているんだと思います。

 

ですからまず「話を聞く」ことに始まり「反論はせず」「謝罪の気持ちを伝える」ということ。これが素で出来る人はすごいですね。プロのビジネスマン、ビジネスマンと言うよりは営業職などに向いていそうです。まあ言わなければいけないことは時期を見て伝えることが大事ですが、おおむねこのステップを踏むように行動すると、鎮火は少し早まると思います。

 

ここまでの方法って、先日の彼女との会話にも大いに活躍してくれているんですよね。会話の流れ上謝ったりすることは別段ありませんでしたが、「話を聞き」「反論はしない」ということは、真面目な学会員さんとのお話の中では重要になります。

話を聞くという行為は相手にとって“この人は理解しようとしてくれている”と思ってもらえる、つまり距離を近付けるために大事な行程なんですね。もちろん相手の言葉の真意をしっかり理解することも重要ですが、それができなくとも「話を聞く姿勢」を相手に見せることが重要になります。

 

そして無暗に反論をしない。自分としてはそれは違うと信じていることも、相手にとっては真である限り、その反論は火に油を注ぐだけです。なので反論はしないこと。

しかし黙っているだけでは根本的な解決にはなりません。ここでポイントになるのは…

 

“質問すること”

 

こちらの意見をただぶつけるのではなく質問と言う形に変換します。これによりまず、相手は“こちらをより知ろうとしてくれている”と感じます。これは大きい!!

そしてこの質問にもちょっとばかりテクニックが必要です。相手が少し考えなければならない質問を出来るようにしましょう。ここまで相手は自分の気持ちを吐き出すことだけに専念してきました。それを相手の内に少しだけ封じ込めます。これにより少しばかり時間を置くことができ、自分だけでなく相手も落ち着くことが期待できます。

こちらから質問を投げかけ、それを相手に答えさせる。こうすることで相手が握っていた流れをこちら側に傾けることもできます。

 

 

あまり推奨できることではありませんが、例えば相手が学会の信仰に悩んでいたとします。そういった相手にわざと質問をいくつかぶつけるんです。答えがある程度決まっている質問を。それを相手に答えさせることで、相手の一歩踏み出せない気持ちを後押しする、なんてこともできます。これはかなり流れを掌握しないと難しいですが。

 

 

閑話休題

質問と言うのは便利なもので、相手への興味と自分の主張を共に伝えることのできる強力な武器になるんですよね。これを使わない手はありませんね!!

 

ここまでのプロセスを喧嘩になる前に使うことが出来れば、大火事になることは極力回避できそうだと、今までの経験上から言えます。

もちろん男性女性問わず色々な方がいらっしゃいますから一概には言えませんが、ここに挙げたポイントを踏まえれば、創価関連でパートナーや家族と拗れている方と今までよりも円滑なコミュニケーションをとることができるかもしれません。

また創価関連だけではなく職場や家庭内でも、今までよりもちょっといい関係を構築できるかもしれません。

 

喧嘩ではなく有意義な“語らい”を持ちたいものです。

組織ありきなのか

 

ここ数日風が強く、洗濯物が埃っぽくてがっかりきているのらです。

 

私は活動しておらずとも籍は創価学会に置いております。なので他宗がどのような指導をされておられるのかは存じません。そのことを承知の上で、創価学会の事に関して書いていきます。

 

創価学会は組織と、そして永遠の指導者である池田大作氏から離れてはならないと指導されています。そこから離れてしまっては我見の信心になり、信心が歪むとそう教えているのです。

ではそこから離れなければ絶対に信心が歪まないのかと言えばそうとも限らない。寧ろそこに悩んでいる会員はかなり多いと思います。今の組織の方針は正しいのか、自分はこのままでいいのだろうか、信仰と政治は同じ土俵で語っていいのか…。悩みは尽きないことと思います。

例えば一般企業。会社の重役が何か問題を起こしたとします。そうなれば会社のトップである代取、社長、会長等もその責任は免れません。これは社会の常識です。しかし宗教組織、とりわけ創価学会は違う。池田氏がいまだどれだけの影響力を持っていようとも、会員はその下の堕落した幹部が池田氏を利用し、組織を食い物にしているなどと言う理屈を持ち出してくる。じゃあそれを見過ごしている池田氏はどうなるのかと。今や幹部に手も足も出ないとするならば、毎日あれほどの執筆をされているのだから、自身の思いを、末端の会員に対して表明してもいいのではないかと思うのです。…まあそんなことしないと思いますが。

 

昔、オウム真理教が大きな事件を起こし問題となりました。その後の裁判でオウム真理教に解散命令が下されたとき、我が国の憲法第19条【思想及び良心の自由】、20条【信教の自由】、21条【集会・結社・表現の自由】との関係性が争点となったことがありました。つまり、裁判所のオウム真理教解散命令は、憲法の保障する思想良心の自由、信教の自由、集会・結社の自由を侵害しているのではないか、と。

 

結論から言えば、オウム真理教は解散しました。解散命令は合憲だったわけです。

この時のロジックはこうでした。

  1. 解散命令は世俗的目的で判断され合理的
  2. 当該法人の行った行為が反社会的で公共の福祉を害している
  3. 信者の信教行為への支障は間接的・事実上のものである

この3点が主な判断基準でした。

3つ目にアンダーラインをし、赤くしたことからもわかる通りです。

宗教組織への帰属と言うのは信教行為にさほど影響は与えないというのが世間一般の考え方なのです。もちろんここには、オウム真理教の教義から信者を引き離さなければ、同じ人間がこれから絶えず出続けるという危惧もあったとは思います。しかし判例として確立されている以上、個人の信教というのは組織に帰属しなければ完結しないというものではなく、あくまで個人の中で完結すべしというのが世間一般の認識なのです。

裏を返せば上記3番の如く、宗教組織の信者に対する影響力は間接的で事実上のものでしかないということ。これを創価学会の中では絶対としていること自体、ある種異常な状態と言ってもいいかもしれません。

上記の記述はあくまで裁判所の出した結論、判例であって世の中がすべてその考えで回ることが良いとは思いません。その組織ごとに色々な考え方があっていいと思います。しかし、組織がなければ信仰が保てないのだとしたら、それは最早信仰と言えるのでしょうか。

 

付け加えるとオウム真理教は解散後に新たな組織「アーレフ」を立ち上げ、信仰を続けました。これが正しいか正しくないかはさておき、組織ありきの信仰ではなく、信仰あっての組織だと痛感しました。

 

オウム真理教が宗教組織であったかはまた別のお話…。

幸せの形

 

昨日は暖かかったのに今日になったら急に冷え込みましたね!!

寒暖の差が激しく体が動揺しているのらです。

皆さん、体調崩さぬよう気を付けてくださいね。

 

母から「幸せになるため」と教わった学会の活動。

皆さんの幸せってなんでしょうか???

寝ること?

食べること?

運動すること?

死ぬほどゲームをすること?

映画三昧の休日?

大好きな仕事をしているとき??

 

この中に正解があるとすれば…全部じゃないでしょうか(笑)

そもそも幸せに正解も不正解もないんですよね。逆だってそうじゃないですか。お金がないから不幸かと言われればそういうわけでもない。子どもがいない夫婦は不幸かと言われればそれも違う。幸か不幸かは立場や人間性、捉え方によって様々です。だから自分が幸せだと思うことを人に押し付けたからと言って相手も幸せになるとは限らないんですね。これ、意外と盲点だったりします。

 

前回の記事「学会員の弱点-学会員と付き合うポイント-」で書いたように、学会員である彼女には大きな弱点がありました。

  1. 自分に対して完璧主義
  2. 自分を褒めず、責任だけを背負い込む

この弱点故に自分はダメなんだと思い込みやすい傾向にあると書きましたが、そこにはもう一つ、ある要因が潜んでいました。それは…

 

「外部の人の方が幸せそうに見える時がある」

 

これだったんですね。

自分は絶対幸福の信心をしているはずなのに、外部の方が幸せに見える。ここで末期の方は「いつか不幸が…」とか「あんなのは表面上の幸せだ」とか言うんです。私の近くにもいました。そうやって言いたい奴には言わせておけばいい。ただ、外から見ればその物言いは“外部の幸せそうな姿に嫉妬している”ようにしか見えない、と言うことは良く覚えておいた方がいいと私は思います。

問題なのは末期ではない方、要は私の彼女のようなタイプなんです。このタイプは相手に干渉するでもなくただ落ち込んだり考え込んでしまったりする。こうなるともうどうしようもない。外から幸せそうに見える人でも、本当は何かを抱えて生きているかもしれないという可能性がなかなか見えてこないんです。

考えてみてください。自分がしていることは間違いないと確信しながらも、自分が幸せなのか悩む人間と、色々抱えながらも楽観的に幸せそうに生きる人間。どちらが心の健康を保てそうですか?

多分大多数は後者を選択するんじゃないかと思います。悩みに負けない、何事にも乱されない自分を形成するはずの信仰によって自分自身がぶれる、本末転倒な結果になってしまっています。これではいけないんですよね。折伏や新聞啓蒙、選挙活動を教える前に、本当はこういったことを教えなければいけないんだと私は思います。あ、あくまで私が運営するならの話ですよ!(笑)

 

私は、彼女とは持久戦になると思っているのでこういった殺傷能力の強い言葉を使うつもりはありません。しかし、相手の考えに思いを巡らすことは理解することにもつながります。その意味で日々のやりとりを軸に、相手がどう感じ、何を考え、話をしてくれたのかをこうした形で残しておきたいと考えています。

 

 

それにしても、どこに行っても袋のネズミになる教えってすごいですね。驚嘆してしまいます。

  • 本人が幸せだと感じる  →学会のおかげ
  • 本人が幸せだと感じない →信心が足りない
  • 本人が脱会したいと思う →魔が競い起きている
  • 脱会を踏みとどまる   →魔に打ち勝った
  • 脱会した        →あいつは負けたと組織内で反面教師

この中で特に怖いのが5つ目の項目、「組織内で反面教師にされる」というもの。

これ、辞めた人が困るんじゃないんですよ。むしろターゲットは中の人。辞めた人間はこうやって組織内で言われるんだ、と刷り込んでいくんです。もちろん組織によって全く話に出さなかったり、言葉を濁し、病気のため実家に帰ったとかいうところもあります。ただ個人同士の話になると必ずそういった話が出ます。特に婦人部同士の会話と言うのはそこいらのおばちゃんと基本変わりませんからね(笑)

こういったことを無意識のうちに見て育つことで、否定的な考えを自然と排除するようになっていきます。こうやって、組織に就くことが幸せへの近道という認識になっていくんですね。

 

 

あらま、タイトルと関係ない話になってしまいました。それではこの辺で。